There are 142 families with surname of Tai in Japan
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11696 太 142
Tai 太
奄美群島の名字
琉球処分と奄美諸島
広義の琉球処分は一般的には、1872年9月の琉球藩設置に始まり、79年3月の沖縄県設置を経て、80年の日清間における分島改約案の妥結・破棄、という過程を指している。
(1)琉球処分と鹿児島
①鹿児島藩から明治政府へ提出「琉球管轄之沿革調書」(71年7月)※廃藩置県の2日前の日付
・政府は廃藩置県によって、ひとまず琉球を鹿児島県の管轄下においた。
・岩倉使節団の欧米への出発(71年11月)→ 重要調査事項の一つに「琉球」問題
②鹿児島県の対応(<琉球>に対する既得権益の維持)
・71年8月、大久保と西郷は協議の上、「善後ノ処置ヲ講セシムル」ために、西郷従道らを帰藩させる。
・71年12月、西郷、士族救済のために砂糖独占販売の商社設立に同意(桂久武への手紙)
・72年正月、鹿児島県から琉球藩へ「伝事」→「幸鹿児島之管轄ニ属シ、其段ハ御安心之事ニ候」
・72年前半、大蔵省への伺「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」
③明治政府の対応(琉球と鹿児島県の関係を切断)
・72年9月、琉球王国を「琉球藩」とする(明治政府の直轄)→ 琉球王府の外交権は外務省の管轄。
・同9月、伊地知貞馨(鹿児島県の「伝事」)、外務省官員として琉球藩勤務を命じられる。
・同年11月、琉球の租税納入先、鹿児島県から大蔵省租税寮へ変更される。
・73年3月、琉球藩に外務省出張所開設、鹿児島の琉球在藩奉行も外務省出張所勤務→在藩奉行消滅
(2)「大島県」設置構想 ※弓削政己「明治維新と諸制度」(『瀬戸内町誌』歴史編、2007年)
①大蔵省と鹿児島県の対立
・租税の納入方法→ 大蔵省は砂糖現物納、鹿児島県は金納
・士族の救済方法の一方法としての「大島商社」設置問題
②大蔵省の方針
・「当年限り従前之通取計」(72年5月)→ 当年に限り、旧藩時代の独占販売体制を認めた
・砂糖の自由売買を布達(73年3月)→ 独占販売体制(大島商社)方式の否定
・鹿児島県は、大島商社方式を継続 ※大蔵省による奄美諸島調査(73年から9ヶ月間)
③大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ稟申「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ」(74年9月)
・旧藩時代に民力が「傷害」→ 大蔵省管轄下で砂糖増産、輸入砂糖減少→「莫大之国益ヲ増加」
・内務卿大久保の「裁可」が「否」であったと考えられ、「大島県」設置は実現しなかった。
・大島に大支庁、他の四島に支庁を置く(75年6月)←それまで旧藩時代の統治体制のままであった。
④砂糖自由売買運動(勝手世騒動)※「大島商社」の解体を目的とした運動
・丸田南里、密航先の英国、上海から帰島(75年初頭)→ 組織(主体)的な砂糖自由売買運動を展開
・征韓論争に敗れた西郷、帰県(73年10月)→「私学校」創立、県下に強い影響力を行使
・丸田南里ら3名、県庁に嘆願(76年4月)→ 「棒打の刑に処」せられる→大島へ、調査団派遣
・55名の陳情団、上鹿(77年2月)→西南戦争(同月)→従軍(35名)→生存者の大半、帰島中に難破
・西南戦争終結後、79年分から砂糖自由売買が認められた。(78年7月)。※琉球処分(79年3月)
(3)琉球王府、清国政府にとっての奄美諸島
①奄美諸島の返還要求(琉球王府)
・琉球藩設置の際(72年9月)王府側は「道之島(奄美諸島)」の返還を政府に要求。
・薩摩によって「押領」された「大島・徳之島・喜界島・与論島・永良部島は固より我琉球の隷
属」である。
・副島外務卿は、「宜しく琉球の為めに処置すべし」と空約束。
・琉球側には王国自身が存亡の危機という意識はなく、単に薩摩から解放されたという認識であった。
②琉球三分割案(清国政府)
・琉球処分(79年3月)は、日清間の外交問題に発展→前米国大統領グラントによる調停(79年8月)
・琉球二分割案(沖縄諸島以北は日本帰属、先島諸島は清国帰属)で妥結(80年10月)→破棄
※妥結に抗議して、林世功(亡命琉球人、最後の官生)、清国で自決(80年11月)
・李鴻章が予備交渉の場で、日本政府側に琉球三分割案を提案し、拒否されていた(80年4月)。
※「北島(奄美諸島)」は日本帰属、「中島(沖縄諸島)」には王国復活、「南島(先島諸島)」は清国帰属
※琉球三分割案は復帰運動の嘆願書で、奄美諸島の「日本帰属」を正当化する論拠として使われる。
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