少しは渤海国について勉強しなければならない、と思っていたら、格好の歴史講座が東京で開かれることを知った。「トンボの目」が主宰する歴史講座で、滋賀県立大学の田中俊明教授が「新羅・渤海・唐・日本 - 8世紀前半における東アジア国際情勢」について概説されるという。早速、本日の午後から池袋の豊島区立区民センターに出かけて、教授の講義を拝聴してきた。
渤海国は668年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の遺民・大祚栄(だいそえい、テジョン)が、30年後の698年に建国した国とされている。そして、15代にわたって文化を爛熟させ繁栄を誇ったが、926年、急速に勢力を強めた契丹の耶律阿保機(やりつあほき)によって滅ぼされ、228年の歴史に幕を閉じた。
渤海は契丹に降ったが、契丹では渤海の国史は編纂されなかった。それに加えて、契丹は渤海の遺物を徹底的に破壊したため、文字で記された遺物として発見されたのは、2人の公主の墓誌または墓碑ぐらいで、その他にはほとんど何も残されていない。そのため渤海の歴史を再構築するためには、渤海が隣り合っていた唐や新羅、日本の記録に頼らなければならない。田中教授によれば、渤海のことを記した基本資料は、『旧唐書』渤海靺鞨伝、『新唐書』渤海伝、『五代会要』渤海伝、『冊府元亀』などが中心で、その他には『三国史記』新羅伝やわが国の『続日本紀』などの国史に断片記事があるにすぎない。渤海が「知られざる国」、「忘れられた国」と呼ばれるゆえんは、そのためである
初代の王は、高句麗王族の一姓である大(だい)氏を継承し、大祚栄(だいそえい)と名乗った。大祚栄は独立戦争の最中に陣中でなくなった乞々仲象の長子とされている。大祚栄は高句麗の復興を唱えて、次第に支配地域を広げていった。彼が死んだ719年には旧高句麗の北半分を領土にしてしまったという。はじめは弾圧することしか考えなかった唐だが、玄宗皇帝は713年、大祚栄が息子の大門芸(だいもんげい)を人質として入れ、朝貢の礼をとることを条件に、震(振)王を自称する大祚栄を左驍員外大将軍渤海郡王として正式に冊封体制に組み込み、唐臣として遇することにした。冊封号の”左驍員外(さぎょういんがい)大将軍”は正三品の軍官であり、この冊封号は第三代の王大欽茂(だいきんも)まで同じくすることになる。
『続日本紀』や『日本後記』、『類従国史』、『日本三代実録』、『日本紀略』などのわが国の史書には、神亀4年(727)の渤海使節来朝を皮切りに、919年までに33回も渤海国から使節団が来たことを伝えている。最初の渤海使節は、第2代王の大武芸が、唐・新羅・黒水靺鞨部との間に挟まれ国際的に孤立に追い込まれたため、新羅と対立関係にある日本に目をつけ軍事同盟を結ぼうとして派遣してきた使節である。
使節団は寧遠将軍・高仁義(こうじんぎ)を大使とする24人で構成されていたが、沿岸を北流する対馬海流に流されて出羽に漂着した。運悪く高仁義以下16名は蝦夷(えみし)に殺害されてしまったが、残った8人はなんとか死地を脱出して、4ヶ月後に平城京にたどり着き、大武芸の国書と土産の貂(てん)の皮を朝廷に差し出した。大武芸の国書には格調高い漢文で使を通じて隣国との友好を進めたいとだけ書かれているにすぎなかったが、使節派遣の目的が共通の敵国新羅に対する遠交近攻の同盟関係の樹立にあったことは明白だ。しかし、大使が殺害されてしまった以上、所期の目的が達せられたがどうかは不明である。
この生き残った8人の渤海使節は、船を破壊され帰国する術を失っていた。そこで、朝廷では彼らを渤海国まで送り届けるため、引田朝臣虫麻呂(ひきたのあそん・むしまろ)を団長とする総勢62名の送使団を結成し、さらに渡航のための船2隻を新造して翌年の8月一行を渤海まで送り届けている。このように来朝した使節に送使をつけて帰国させることが、その後慣例化して810年まで15回も続いている。
762年、従来の「渤海郡王」に代わって「渤海国王」の称号が大欽茂に与えられ、唐王朝の冊封を受けるようになると、渤海は新羅を敵視する必要がなくなり、日本との遠交近攻策を取る必要もなくなった。ところが、その後も渤海と日本の国交は、それまでにもまして緊密に続けられ、150余年の間に27回の渤海使が日本にやってくるという関係が続いている。彼らが日本に求めたものは繊維製品であり、日本が求めたのは多種多様の毛皮である。こうして当初の軍事目的の通交は、経済優先の国交へ変質していった。
919年に二度目の来日を果たした裴チン(はいちん)を大使とする使節が、渤海使としては最後のものとなった。彼が920年に帰国した後、926年には契丹に攻撃されて渤海はあえなく滅亡してしまう。しかし、裴チンは契丹がその後に建てた東丹国(とうたんこく)に残留させられ、外交の経験を買われて927年に東丹国使として来朝している。しかし、朝廷は>裴チンが夷狄の軍門にくだって二君に仕えたことを非難し、そのような使節を派遣してきた東丹国は非礼であると、使節を到着地丹後から追い返してしまった。勘門の役を負った藤原雅量(ふじわらのまさかず)は>裴チンと知古の間柄だった。非情な指令を伝えなければならなかった彼の心情はいかばかりであっただろうか。
[参考・引用文献] 歴史講座レジメ:田中俊明著「新羅・渤海・唐・日本 - 8世紀前半における東アジア国際情勢」、上田雄著『渤海国の謎』(講談社現代新書1104 1992年刊)、濱田耕策著『渤海国興亡史』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー106)
(*)上田雄著『渤海国の謎』より転写